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「ドクターが海へ落ちたぞ!」
甲板にいた船乗りの誰かが仰天した声を上げるのを聞いた。
ああ、またやってしまった…!
だが、そう思った時にはすでに手遅れだったのだ。
波影を横切っていった見慣れない生き物に気を取られていた。
もっとよく見ようと、身を乗り出しすぎた舷側から海へ無様にダイブしてしまったのは、
もうこれで何回目になるだろう。
世界中の海の味を知るのは、ぼくの当初の計画や思惑には含まれていなかったことではあるけれど、
稀有な情報としていつか何かの役に立つことも、ひょっとするとあり得るのではないだろうか…?
ぼくのもうひとつの "仕事" のことが、ちらりと脳裏をよぎった。
―――まさかね。
塩辛い海水が鼻腔と口中を満たす。肺から上がる息がゴボゴボと音を立てて泡となり、
容赦なく侵入してくる海水の代わりに体内から出て行った。
海面へ、高みへ……。
泡の行方をぼんやりと目で追いながら、せめて頭部だけでも海面上へ浮かぶ努力をすべく、
重い手足をばたつかせる。
情けない。まるで飛べない鳥の飛行練習のようじゃないか。
こんな時にでも冗談を考える余裕がある自分をふと可笑しく感じる。
それはきっと、彼を信頼しているからこそできるのだ。そう思った。
ジャック、ジャック…。
来てくれ。ぼくはここにいる。
その信頼が正しかったことは、すぐに証明された。
背後上方から近づいてきた人物の、馴染みのある力強い腕が、ぼくの体をがっしりと捕まえたのだ。
心配そうに眉を寄せて見つめてくる青い瞳に、ぼくは出来る限りの笑顔を作ってみせた。
少なくともそのつもりだが、実際は顔の筋が奇妙にこわばっただけかもしれない。
嬉しさにうっかり気を抜いた瞬間、肺に残っていた最後の命の泡をすっかり吐き出してしまったものだから、
呼吸困難をきたし、あっという間に苦悶の形相を呈してしまっていただろう。
お世辞にも美しい人魚とはいえない、たっぷりと肥えた救助者(そう、人魚ではなくマナティのような)は、
慌ててぼくの口を彼の口でふさぐと、空っぽの肺の中へ強引に酸素を送り込んできた。
そうしておいてからぐいっとぼくの体を抱き寄せて、そのまま海面へ向かって勢いよく上昇を開始した。
彼の長い金色の髪が自由に水中に広がり、海面から差し込む光を受けて眩しく輝く。
"金髪さん" か…。
今がどういう状況にあるのかも忘れ、ぼくは見惚れていた。
この堂々とした美しい姿を(恰幅があまりにも良すぎることには目をつむり)少しでも長く見つめていたい。
つまりは、先程の彼に対する失礼な形容を訂正しなければいけないわけだ。
彼は金色に輝く、強靭で美しい海の生物なのだ、と…。