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甲板に引き上げられるや、全身びしょ濡れになった僕たちを、笑顔で待ち構えていた何組もの
親切な介護の手が取り巻いた。
やがてすべてが元の落ち着きを取り戻し、キリックの淹れてくれたコーヒー(角砂糖3つ入り)を
飲んで冷えた体を内側から温めながら、ジャックとぼくはキャビンでくつろいでいた。
ジャックはブーツもストッキングも脱いだ素足のままで、心底リラックスしている様子だった。
ぼくはといえば、説明のつかない奇妙な、どこか高揚しているような気分でいた。

カップに渦巻くコーヒーの濃い褐色を見るともなしに見ていると、ジャックが小さく咳払いをし、
顔を上げたぼくに、やれやれといった仕草で肩をすくめて言った。

「それで? スティーブン。今度は何を観察してたんだ、え?
 きみの泳ぎはまだ完璧とはいえない。それでも海へ飛び込みたくなるほど夢中に?」
「すまない。ジャック、きみにいつも迷惑をかけてしまっているな…。
 だが、あの生き物は非常に変わった形体をしていて、あるいは新種の可能性もあり得たんだ!
 素晴らしい! ねえ、きみ、この意味が分かるだろうね? もしあれを捕獲して調査することができたら、
 我々の博物学に新しい発見のページを…」
「待て、待て。そう興奮しなさんな。また酸欠になっちまうぞ」
「…海に落ちてしまったことは、本当にすまなかったと思っているよ」
「反省しているなら結構。
 とはいえ、これまでの例からいって、いつまで効力のある反省なのかは分かりゃしないな。
 きみにしっかりと泳ぎを覚えてもらわんことには、オチオチ目を離せない」

目が離せないのは、ぼくのほうかもしれない。
まだ生乾きのジャックの金髪は、いつもより少し濃い色味を帯びている。
先に乾いた気まぐれな前髪が額に落ちかかり、一筋の金色の光彩を放った。

「ジャック。例えばの話しだと思って聞いてくれるかい?」
「何だね?」
「そう…例えばだ。ぼくとソフィーのふたりが同時に危険な海へ落ちたとする」
「馬鹿な!」
「だからほんの例え話だよ。ねぇ、そうしたらきみ、どちらを先に助ける?
 救助の遅れたほうは助からない可能性もあるとしたら…」
「くだらん、くだらん。実にくだらん。そりゃあ、あり得ない話しってやつさ」
「…そうか。
 そうだな。きみがそう言うなら……」

コーヒーをすするジャックの口元を見つめ、彼の唇の感触を思い出していた。
この善良なる男に、ぼくは何を期待しているんだろう。
まったくもって彼の言うとおりだ。こんなくだらない質問を…。

「きみを選べば、きみは悲しむ。なぜ自分ではなくソフィーを選ばなかったのかと、ぼくを激しく
 責めるだろう。違うかね?」
「え…? ああ、そうだろうな…うん、おそらく当たっている。鋭いところを突かれたというべきか」
「しかしソフィーを選んでも悲しむだろう? きみのことだから、表立っては口に出さないだろうがね。
 ぼくは決してきみを見捨てるつもりはないってのに」

これでいい。親友としての模範的な反応を得られた。
ジャックはぼくを見捨てないと言ってくれた。
これでいいんだ。これ以上、何がどうあるべきだというのか…。

「…結局のところ、スティーブン、ぼくはきみを選ぶよ」
「何だって!?」
「きみを選べば、ソフィーは悲しむ。しかし、彼女は確実に助かるのさ。
 なぜって彼女は美人だからなぁ。連中が争って我先に救助しようとするだろうよ。
 その横できみは苦悶の表情でブクブク沈んでいくんだ。自分が男で、美しい女性に生まれ
 つかなかったことを悔やみながら。例えばこうだ…神よ、来世では美貌と豊満な乳房を我に与えよ、とね。
 ああ、なかなか壮絶な最期だな」
「あきれた最期だ」
「とにかくもだ。二人のうち、どちらにぼくの助けが必要かは、これで分かっただろう?」
「ああ。きみの性質の悪い想像力についてもね。
 しかし、ジャック。最愛の奥方に対して、いいのかい、そんなことで?」
「それは、まぁ…。きみがその踵に鉛のついたクソ重たいブーツを履くことをあきらめて、泳ぎをきちんと
 マスターしてくれれば、あるいは、ぼくの考えも変わるかもしれん、ということだな、うん」
「なるほど…。一理あると思う部分は参考にさせてもらうよ」
「そうしてくれたまえ、ドクター。
 いや、実際、考えるとひどく怖い。こんな話しが彼女の耳に入りでもしてみろって。嫉妬で怒れる
 ソフィーを静めるのは、貧弱な筏で戦列艦に挑む以上に困難を極めるってもんだよ! あははっ!」

ジャックは冗談めかして大笑いする。
ぼくは混乱する気持ちのまま残りのコーヒーを一息に飲み干し、カップを置くと、何ともなしに
手を伸ばして、チェロの優美な曲線をそっと撫で下ろした。
するとジャックは待っていましたといわんばかりに、ヴァイオリンをケースから出して構える。
そして誘うように曲の触りだけを軽く弾くと、ぼくを見てにこりと微笑んだ。

「本当のところ、一瞬たりとも考えたくないよ。
 ぼくの大切な…きみとソフィーの、どちらかでも失うなんてことは」
「ジャック…」

―――ぼくは彼にとってどんな存在でありたいのだろう?

導かれない答えを探すように 彼の弾いた旋律を継いでチェロの弦をピチカートでつまびく。
ポン、ポン、ポンと、ボッケリーニの軽やかな音階の響きが妙に心地よい。
そこにジャックの奏でる主旋律が重なって軽快に弾けた。

これでいいんだ…これがいいんだ…。

やがて、二人のぴたりと息の合った演奏が、コーヒーの芳香とともにキャビンを満たしていった。





→→→ memo
すっごく好きです。二人の合奏シーン。
それにしても、ドクター・マチュリン、本当はもっとちゃんと泳げる人になってると
思うのですが、都合よく自分解釈してカナヅチ設定となっております。
だってね、そのほうがカワイイ…v(笑)。申し訳ありませぬ。